ハンブルグを訪問した後、最後はドイツ北部のちょうど真ん中らへんにあるリューベックを訪れる。ここはハンザ同盟でとても大切な役割を果たした古い町で、旧市街は世界遺産にも登録されている。町は7つ(だったっけ?)の教会のタワーがシンボルとなっているらしい。人口は21万人ほどらしく、この規模ならヨーロッパではちゃんとした都市となっている。ウィキ情報によると、旧市街への入口にある門はかつてドイツマルク紙幣の図柄として使用されていたらしく、きっとこの町はドイツ人のプライドを感じられる町なんだと思う。
町は旧市街らしいオーガニックな都市構造をしていた。周りを水で囲まれていて、その内側に道が自然発生しているようだった。もちろん都市計画はあるだろうけれど、碁盤の目のようなつまらない機能的な構造じゃなくて私は好きです。
ドイツ統一以前は西ドイツにあったものの、東ドイツへの国境がすぐ近くだったらしい。それゆえ、東ドイツへの敬意を表して、東ドイツの労働者デザイン信号も数個使われていた。
町を歩いていると、いたるところに金色のプレートが道路に埋め込まれているのに気付いた。友人に尋ねると、「かつてここに○○というユダヤ人が住んでいました」というサインらしい。ナチスの強制連行で連れ去られた犠牲者で、記録がある人たちを偲ぶために作られているらしい。もちろん、こういうプレートがない犠牲者なんかはもっとたくさんいるのだろうけれど。。。
幸運にも、私の一番仲良しのドイツ人の友人の地元がこの町で、クリスマスのために戻っていたため、上に紹介したちょっとしたトリビアは彼から教えてもらえた。この日は12月23日で、私たちは夜の便でリューベック空港からストックホルムに戻る日であった。なので、夕方頃に町歩きを済ませ、友人宅で彼と彼の彼女と妹と彼女の友達とクリスマスディナーをしてから空港に送ってもらうことになった。至れり尽くせりである。とても楽しい休暇を楽しませてもらった。
そして夜、空港へと送ってもらう。恐怖はここから始まった。上の写真でもわかるけれど、この日はドイツでさえ稀な濃霧が発生していた。真昼でさえかなり見えず、夜は一層激しくなった濃霧に暗さも加わり視界数メートルとかのレベルだった。道中、友人には「この調子だとかなり遅れがありそうだねー」なんて話をしていた。空港に着き、友人と別れて飛行機を待つ。どうも様子がおかしい。しばらくした後、欠航が決定した。振り替え便はアナウンスをドイツ語→スウェーデン語→英語の順でされたせいで理解が遅れ、一番早い翌朝ロンドン経由ストックホルム行を取り逃し、27日か28日にベルリンかブレーメンからという理不尽な日程がオファーされた。これが格安航空会社で飛ぶ際の『万が一』の怖さである。
結局、リューベックがドイツ北部にあり、陸路ストックホルムへ戻れることを知っていたため、切符はキャンセルし、鬼のように高い電車で翌朝ストックホルムへ向けて出発することにした。空港まで友人に迎えて来てもらい、「おれは欠航になるだろうってわかってたよ」だってw その夜はとりあえずコペンハーゲンまでの切符を確保し、彼のお母さんの職場に泊めさせてもらった。いろいろと助けてもらった彼には本当に感謝感激であった。持つべきものは友達(とクレジットカード)だなーなんて痛感させられたリューベック訪問であった。
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